前回のブログでは荘子が”自由”を選んだという話をしたが、
”自由”とは実際に”自由”ではない。
例えば、憲法では、様々な自由が保証されているが、
完全な自由ということを意味しない。
それは、”公共の福祉”や”平等”という別概念に制限される。
また、荘子は”自由”を選んだ代償として、貧乏を余儀なくされた。
貧しさは、
何でも買える自由
どこでも行ける自由
食べたいものも食べる自由
いいところに住む自由
・・・
多くの自由を制限する。
よって、”自由”を選んだとしても、
それは”自由”では決してない。
そのかわり、
人のいいなりにならなくてもいい
意に沿わないことをしなくてもいい
わずらわしいこと、人とのつきあいを遮断できる
どうでもいいことに悩まなくてもいい
・・・
という”自由”は得られる。
どんな”自由”を選ぶのか?
後者を選んだのが荘子である。
ノマドワーカーやフリーエージェントも荘子に近い自由を選んだのだろう。
ストレス社会といわれ、うつ病も人類の歴史上かつてないほど、
多くの人がかかっていると思われる社会。
この社会において、こういう”自由”は検討するに値する。
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